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映画『砂の器』レビュー:いつの世も差別と偏見はなくならない

松竹
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作品概要

映画『砂の器』は、ハンセン病に侵されたために村を追われ、放浪の旅を続ける父と子に対する差別と偏見を描いた作品。松本清張の小説は現在までいくつもの作品が映像化されていますが、今作はそれらの中で最も人気が高く数々の賞を受賞した作品です。

主なキャスト・スタッフなど

  • 今西警部補:丹波哲郎
  • 吉村巡査:森田健作
  • 和賀 英良/本浦 秀夫:加藤剛
  • 本浦 千代吉:加藤嘉
  • 本浦 秀夫(少年期):春田和秀
  • 三木 謙一(元亀嵩駐在所巡査):緒形拳
  • 原作:松本清張『砂の器』
  • 脚本:橋本忍、山田洋次
  • 監督:野村芳太郎
  • 音楽監督:芥川也寸志
  • 公開: 1974年10月19日
  • 上映時間:143分
  • 配給:松竹

あらすじ

東京都大田区蒲田駅の操車場で初老の男性が殺された。被害者は殺される直前にスナックで若い男性と会っており、東北弁で「カメダ」という言葉が交わされていたと店員が証言する。警視庁の今西警部補と吉村巡査は秋田県の亀田を訪れるが、これといった手がかりを得られずに帰京する。

その後、今西は島根県に東北弁と音韻がよく似ている土地があることを突き止める。そこは被害者の三木謙一が、かつて警察官として勤務していた土地だった。今西は三木が殺された原因を彼の警察官時代に求めるが、三木を知る人々は口を揃えて人から恨みを買う人ではないと言うばかり。

捜査は再び振り出しに戻ったかに思えたが、三木をよく知る島根の老人から今西に手紙が届く。そこには、かつて三木が乞食の父子を世話したことがあると書かれていた。

感想・レビュー

今作のクライマックスである父子が放浪するシーンは、あえてセリフを入れず、劇中曲の「宿命」をバックに父と息子の苦難の日々を映し出しています。

ハンセン病という伝染病に侵された千代吉は村を追われ、幼い秀男を連れて遍路の旅に出ます。村を見下ろす父子を遠くから見送る村人たち。ある者はただ眺め、ある者は申し訳なさそうに頭を下げる。そんな村人たちを睨みつける幼い秀男の顔は、回想シーンを通して変わることがありません。

とある村の家で物乞いをする秀男、居留守を決めこむ家に向かって激しく急き立てるように鈴を鳴らします。このときの秀男の顔は、このあとの人生で世の中に対する彼の生き方を決めたように映ります。

父と子の放浪シーンは、カメラワークのほとんどが上から、または遠くから捉えられています。それは世の中からこぼれ落ちた人を差別し、見下し、無関心でいる人々の心を表しています。

島根県の亀嵩で巡査をしていた三木は幼い秀男を引き取ろうとしましたが、秀男にとっては三木さえも自分と父親を引き離した敵。頭では三木の親切を理解しても、世間から疎まれ続けてきた幼い心がそれを受け入れられなかったようです。

家を飛び出した秀男を必死に探し回る三木を、木陰から睨むように見つめる秀男。このとき、村を追われてから初めて秀男が上から見下ろすアングルになったのが印象的です。

秀男の消息を知った今西は、千代吉を訪ねて一枚の写真を見せます。それは、音楽家として成功を収めた秀男の姿でした。しかし千代吉は「そんな人、知らねえ!」と叫び、泣き崩れてしまいます。

亀嵩で別れてから、一日千秋の思いで我が子との再会を待ちわびてきた千代吉でしたが、今の秀男にとって自分の存在は邪魔にしかならないと悟った瞬間でした。

かつて、悲しい運命を共にした父と子ですが、二人の宿命は今生での再会を叶わぬものにしてしまいます。加藤嘉の渾身の一言に涙腺が緩むのを禁じえません。

秀男にとって「砂の器」とは?

劇中では冒頭の砂浜と亀嵩の川沿いの2箇所で秀男が砂の器を作るシーンがあります。彼にとって「砂の器」とは何を意味していたんでしょうか?

それはきっと、ただ平凡な日々だったに違いありません。両親と暮らし、毎日ご飯が食べられ、みんなと同じように学校に通える暮らし。

他の子どもたちが当然のように手にしている暮らしが、どうして自分には得られないのか? その渇望が秀男にとっては無意識に砂の器として表現されています。

成長した秀男こと和賀英良は「宿命とは、生まれてきたこと、生きていくこと」と言います。宿命を辞書で引くと、生まれる前から決められた定めとあります。つまり、自分ではどうにもできない人生の初期設定。

どんな親のもとに生まれるか? 「親ガチャ」という言葉があるように、金の器を持って生まれてくる者もいれば、砂の器を持たされて生まれてくる者もいる。後者にとって宿命とは、手にした途端に崩れ落ちる砂の器のように残酷な人生の初期設定です。

弱者に対する差別がなくなることはない

かつて「らい病」と呼ばれた「ハンセン病」は、皮膚に斑点が生じたり手足が変形するなど、外観的な症状が表れるため、とくに差別の対象となりやすかったようです。

おなじように感染病者に対する差別を描いた作品に『丑三つの村』がありますが、これも日本という村社会にはびこる陰湿さを描いた傑作でした。

映画『丑三つの村』感想・考察(ネタバレあり)
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人には自分にとって害となりうる存在を拒否する防衛本能があります。映画『砂の器』では父子の放浪の日々に世の中の無遠慮な差別と偏見が描かれていますが、こうしたことは過去のことではなく今でもあります。2020年に、あの病いが蔓延し始めたときもそうでした。

身近に感染した人がいると、ぼくたちは自然に彼らと距離を取ろうとします。それは生き物としての防衛本能ですが、得体の知れないものへの恐れが人を不条理な行動に走らせます。

差別や偏見をなくすには正しい情報を手に入れることですが、人々の不安を煽るばかりのマスコミには期待できないので、自ら正しい情報を求めるしかありません。

今作ではラストに、ハンセン病は今では不治の病ではないこと、それを拒むのは非科学的な偏見と差別のみ、というテロップが挿入されています。これはハンセン病患者やその家族との約束で入れたそうです。

現在はハンセン病に罹る日本人はほとんどなく、仮に罹っても投薬で治療が可能です。しかしハンセン病に対する差別や偏見がなくなっても、人の心から未知の脅威や弱者に対する差別と偏見がなくなることは今後もないでしょう。

 

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