映画『あなたへ』は高倉健、田中裕子、ビートたけしの三人が、1985年の『夜叉』以来27年ぶりに顔を揃えて織りなす人間ドラマです。
私はよく高倉健の演技を「何をやっても高倉健」と少し揶揄することが多いのですが、今作では定年を過ぎて嘱託として勤める朴訥な刑務技官を自然体で演じています。これが遺作となってしまいましたが、今さらながら、老境に入った高倉健をもっと観たかったと残念です。
今作でヒロインの洋子を演じた田中裕子は、『夜叉』で魅せた魔性の女ぶりとは真逆の菩薩のような女性像を好演。さすが変幻自在の名女優と、あらためて彼女の演技力に感心します。
また劇中では宮沢賢治の「星めぐりの歌」を歌っていますが、その素直でまっすぐ心に届く優しい歌声も見どころでした。
そしてビートたけしは、今回も一癖あるキャラクターを演じています。。彼が演じる杉野は、英二と同じく妻を亡くした孤独な男。種田山頭火の詩を愛する男ですが、英治の眼の前で逮捕されてしまいます。
再びの共演となった3人は『夜叉』でのギラギラした角がとれて、それぞれが積み重ねてきた円熟味を感じさせます。

【『あなたへ』の主なキャスト・作品概要】
- 倉島英二:高倉健
- 倉島洋子:田中裕子
- 杉野輝夫:ビートたけし
- 監督:降旗康男
- 配給:東宝
- 公開:2012年8月25日
- 上映時間:111分
『あなたへ』あらすじ
刑務所の木工技官・倉島英二は、かつて慰問に来ていた童謡歌手の洋子と結婚し、15年の歳月を仲睦まじく暮らしてきた。しかし洋子に悪性のリンパ腫が見つかったときには、すでに手がつけられない状態だった。
洋子が亡くなった数日後、英二は洋子の代理人(根岸季衣)から手紙を渡される。そこには洋子の故郷である長崎県平戸の海に散骨してほしいと書いてあった。そして、もう一通の手紙が、なぜか平戸の郵便局で受け取るように手配されていた。
洋子の意図がわからないまま、英二は長崎へ向かう。
感想:夫婦だからこそ「気づかい」を保ち続けた英治と洋子
「さっきね、気づいたの。私たちって、お互いに気をつかって暮らしてきたんだなって」。野球中継に盛り上がる居酒屋で、洋子は唐突に言います。
「夫婦なんだから、そんなこと言うなよ」と英治は言いますが、夫婦だからこそ、いつまでも相手を気づかえることって、けっこう難しいことじゃないでしょうか。
生まれも育ちも違う男女が縁によって結ばれ、しばらくのあいだ「同じ時間の一部」を共有します。しかしそのうち自分と相手との距離感があいまいになり、自然と気づかいも減ってしまいます。
あくまでも別個の人間として距離感を保ったまま、「同じ時間の一部」を一緒に過ごしていく。そうした距離感を保っていなければ、元々は他人の夫婦が長いあいだ一緒に過ごすことはできないのかも知れません。
互いへの気づかいを無くした末に離婚した私は、英治と洋子を羨ましく思うと同時に、ほんの少しだけ過去を悔やんだりもします。
もしかすると、そんな気持ちになるのは私だけじゃないかも知れません。なにしろ婚姻率は下がる一方なのに、離婚率は高止まりなのが今の日本ですから。
2020年の離婚件数は約20万件で、半数が10年以上連れ添った夫婦。その中でも熟年離婚が3分の1を占めています。
これだけ離婚する夫婦が多いと、英治と洋子のように、いつまでも互いを思いやれる理想的な夫婦なんてフィクションでしかないかも知れません。だから、この映画は人の心を打ちます。
離婚してしまった人も、かろうじて夫婦を続けている人も、せめて映画の中で仲睦まじい夫婦を追体験したかったのは、きっと私だけじゃないでしょう。
人生は旅か、それとも放浪か
「放浪と旅の違い、わかりますか? 目的があるか、ないかです」と杉野は言い、さらに「(旅とは)帰るところがあるということです」と付け加えます。
しかし英治と再会した杉野は「そんな理屈言いましたか」ととぼけて、「帰るところなんか、これから探しゃあいいじゃないですか。生き残った者は、まだ生きていかなきゃならないんです」と言います。
「あの中(刑務所)では、流れているはずの時間が止まっています」
英二が洋子に再会した時の言葉です。
この世を去った洋子の時間も止まりました。しかし生き残った英二は、まだ生きていかなければなりません。
長崎まで手紙を取りに行かせ、遺骨も墓も残らないよう海に散骨させる。自分の存在を消すためのプロセスを辿らせることで、過去を振り返らずに生きていってほしい。
それが、洋子から英二への最後の気づかいでした。
人生なんて、結局は放浪に過ぎないのかも
人生は旅に例えられることも多いですが、結局は、ただの放浪じゃないかと思います。
目標というゴールに向かって生きているあいだは、人生を旅のように感じるかも知れません。しかし、目標を達成すれば次の目標が必要になります。しかも、死んでしまえば目的の有無や達成できたかなんて関係なくなります。
人生の目標が見つからないと悩む人もいますが、目標なんてなくても生きていくことはできます。むしろ、目標に向かってまっしぐらに進むうちに、取りこぼしてしまうものも増えていくように思えます。
「放浪するうち、迷ってしまいました」
車上荒らしで逮捕された杉野は英二に言いますが、ここは矛盾しています。
宛もなくさまようのが放浪ですから、そもそも迷うことはないはずです。むしろ迷い続けることが放浪です。
生きていると、思うようにいかず迷うことばかり。どうして自分の人生はうまくいかないのかと頭を抱えることも多いのですが、しょせん人生は放浪ですから、迷い続けて終わるのが正しい生き方なのかも知れません。
真っすぐ進もうが、迷いながら進もうが、時間はただ流れるだけです。
「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたかは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」
この映画では種田山頭火の詩が使われていますが、私にはむしろ、鴨長明『方丈記』の出だしのほうがしっくりきます。
※今作が公開された2ヶ月後の2012年10月2日、大浦吾郎を演じた大滝秀治さんがお亡くなりになりました。また主演の高倉健さんも2014年11月10日に亡くなり、今作がお二人の遺作となりました。合唱
追記:今作を元にした小説『あなたへ』もおすすめです
この映画がとても良かったので、森沢明夫の小説版『あなたへ』を読んでみました。
高校の教師だった杉野が、どうして放浪の旅をすることになったのか?
カニ飯弁当を売る田宮は、どうして家に帰らずに済む仕事を続けているのか?
そうした映画の中では詳しく描かれなかったサブキャラたちの事情が詳しく描かれているので、小説を読んでからもう一度映画を見直すと、物語にいっそうの深みを感じることができました。
手頃な価格の文庫本なので、映画を気に入った人にはぜひ読んでいただきたい一冊です。