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エクソシストⅡ(異端者):前作とはかなり趣の異なる作風に戸惑うものの……

SF・ホラー

【エクソシストⅡ:あらすじ】

1977年、リーガンは4年前の悪魔憑きで受けた心のダメージをケアするため、母親の指示でカウンセリングに通っていたが、女優の母親は多忙を理由に一人娘を世話係と精神科の主治医に任せきりだった。

その頃、ラモント神父は、かつてメリン神父が悪魔パズズとの戦いで命を落とした悪魔祓いについて調査するよう、バチカンから極秘に命じられる。ラモント神父は、リーガンの主治医タスキン医師が開発した装置で、まだリーガンの中に悪魔が憑りついていること、そして、リーガンがそれと戦おうとしていることを知る。

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【感想】 抑圧された心は、悪魔が憑りつくために好都合?

前作とは、かなり雰囲気が違う作風に戸惑いました。正統派ホラー映画として期待してみると、「なにこれ?」と思う人がほとんどでしょう。そのため、今作に対する評価は賛否両論に分かれているようです。

しかし、今作の見どころは成長したリーガン。当時の記憶を持ちながらも、自分の中で未だに影響を及ばしている悪魔と戦おうとしています。その姿は、悪魔に憑りつかれたまま、なす術のなかった少女の頃とは違い、強い意思を持って悪と戦おうとしている気高い女性のものでした。

今作は、悪魔に憑りつかれた少女と、悪魔と戦う聖職者という単純な「勧善懲悪」という構図ではなく、悪を生むのは美化された「善」そのものではないのか? というアンチテーゼが描かれています。

かつて、メリン神父はアフリカでイナゴの群れを壊滅させる力を持った少年と出会います。彼の力はまさに神がかりでしたが、メリン神父は彼の存在こそがイナゴの群れを呼び寄せているのでは? と疑念を抱きます。

光があれば影があります。東洋思想にも陰と陽があるように、この世界は相反するもの同士で成り立っています。ならば、神がいれば悪魔もいる。言い換えれば、神がいるから悪魔がいる。

キリスト教徒からは叱られそうですが、それこそが真理であり、善と悪の戦いが終わることのない理由でしょう。そもそも「善」というものが人によって違うところに、争いを生む要素が含まれていますね。

リーガンの心に未だ悪魔の付け入る隙を作っているのは、彼女を他人に丸投げしている母親でしょう。本来なら両親の愛情を受けて育つはずの多感な年頃なのに、両親の離婚で父親の存在感はなく、売れっ子女優の母親は常に不在。その理不尽な寂しさを、リーガンは表向きには理解を示しつつ、心の中では納得できない気持ちを抑圧しています。その葛藤が、悪魔にとっては憑りつくために好都合でした。

そして、ラモント神父もまた、宗教家として女性に対する性欲を抑圧していることを、タスキン医師に指摘されます。そのため、ジョージタウンの「あの家」で、リーガンの姿になった悪魔に、あっけなく懐柔されかけてしまいました。

タスキン医師も、離婚して二人の幼い子供を育てながらクリニックを経営しているストレスを抱え、心の底では身も心も預けたい男性の存在を求めていたはず。もし、リーガンが装置を使った実験の時に、彼女の記憶を消さなければ、タスキン医師もたやすく悪魔の手に落ちたかもしれません。

ラモント神父はリーガンを娘のように思っていたのか、それとも心をシンクロさせたことで、彼女を一人の女性として思うようになったのか。きっと、その両方の気持ちが彼の中にあったに違いありません。そして、リーガンもラモント神父に対して父親像を投影すると同時に、一人の男性としての愛情を感じていたとしても不思議ではありません。

今作はホラー映画としては微妙な評価ですが、人間の心の弱さにつけこもうとする悪魔、そして、それに立ち向かおうとする人間の強さを描いていることでは、決して「駄作」ではないと感じました。

ただ、やっぱり『エクソシスト』シリーズには、もっと「勧善懲悪」なわかりやすいストーリーが求められているでしょうね。原作者のウィリアム・ピーター・ブラッティも今作は気に入らなかったようで、1990年には1作目に登場したキンダーマン警部補(ジョージ・C・スコット)を主人公にした『エクソシス3』を制作しています。

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